“僕達の新活版術”とその周辺
- 会期
- 2002年10月26日~2003年1月11日
- 会場
- Pam A館
1921年に東京府立工芸学校を卒業した原弘は、その後も同校に留まり、製版印刷科の助手として活動していきますが、同時に大正末期から昭和初期にかけての新興美術運動やプロレタリア美術運動と深く関わっていきます。その運動の渦中にいた1925年、原は美術雑誌『みづゑ』に掲載された仲田定之助の記事で、ドイツの進歩的な造形学校バウハウスの存在を知り、続いて26年末にヤン・チヒョルトらが主唱した近代タイポグラフィ運動「ノイエ・テュポグラフィ」の存在を知り、彼らが唱える目新しい理論に傾倒していきます。
1931年、自ら編集・翻訳・執筆のひとり三役をこなした小冊子『新活版術研究』の序文で、彼はこう記しています。
「僕達は欧羅巴に於けるこの運動の中に、学ぶ可き多くのものを見ることが出来る。けれども彼等の活版術は、とつて以て直ちに僕達のものとすることは出来ない。殊に国語の相違から生ずる文字―活字の問題は、彼等の理論の具体的適用に於て決定的な差異点を設けてゐる。僕達は僕達の新活版術を持たなければならない」。
以後の原は、欧米とは言語体系の異なる日本語環境のなかで、タイポグラフィ表現と写真表現の同時代的な姿“僕達の新活版術”を模索していきます。
本展では、新発掘の戦前作品と関連資料を中心に、若き原弘の実験的な取り組みの一端を紹介いたします。
会場写真